映画の出だしから爆笑でした。
ニモの父(マーリン)と母の会話。彼らは新しい家(イソギンチャク)に引っ越してきて・・・
「いい家だ、なんて素晴らしい海の眺めなんだ!」
ってオイ、お前らは海の中で生活しているんだろ!それは人間の台詞だろ! こんな風に「ファインディング・ニモ」は
映画でよくあるパターンを魚たちが演じるイマジネーション豊か?な映画なのです。
死ぬほど笑ったのは鮫トリオ、これが実に素晴らしい。
ホオジロザメのブルースは「ソプラノズ」で言うところのジェームズ・ギャンドルフィーニ、「アナライズ・ミー」で言うところのロバート・デ・ニーロ的なキャラで、マフィアが一般人の生活に入り込むコメディ形式と同じ構成になっています。この鮫達は断魚の誓いを立てて会合を開いているのですが、この会合がなんとセラピー形式。鮫達が集まって
「まずは自己紹介しましょう、そして勇気を出して悩みを打ち明けてごらん」と言う姿は
どう見てもアル中患者達の更正セラピーです。そしてドリーがちょっと怪我をしてしまい血が出て、その血をブルースが
麻薬のように鼻から吸ってしまい、ブルースは
「もっと食(吸)わせろ!」と大暴れ(だから
それは麻薬だって)。そして他のサメたちがブルースを取り押さえて
「やめてくれよ!あんた本当はイイ奴なのに!!」と止めに入る。どう見ても
禁断症状が出た麻薬中毒患者を友人のチンピラ達が止めている状況にしか見えず、かなり危険なギャグです。
他にもヒッチコックパロディが出てきます。カモメの使い方があの名シーンにソックリだったり、殺人(魚)鬼が登場すると
「サイコ」の殺人のテーマが流れたりもします。「ファインディング・ニモ」は実写映画を魚で再現するという冒険的な映画で、ハリウッドの流行の映画テクニックもふんだんに取り入れているのです。例えばハリウッド映画では、作戦を立てるシーンになると作戦内容を解説と共に主観映像で流すのですが、これも魚でやります。最近のハリウッドでは欠かせない
カンフーも勿論出てきます。しかもクライマックスでは「ファイト・クラブ」「シックス・センス」「アイデンティティー」などでおなじみの
衝撃の編集テクニックが出てくるぞ!
真面目に感動したのは
ニモを障害児という設定にしたことです。しかも劇中ちゃんと他のキャラからハンディキャップを「変」と言われるシーンがある。だけどニモと出会うキャラはみんな「あっそ」といった感じで流します(ハンディキャップを気にしているのは父親のマリーンのみ)。
ハンディキャップが変なのは当たり前であるのと同じように、ハンディキャップを受け入れるのも当たり前。受け入れたらハンディキャップなんてすぐに気にならなくなるのも当たり前。良い事、悪い事という区別すらいらないはずの
当たり前の事。そんな当たり前のことを
サラリと描けるピクサーはやはり恐るべし。で、映画はサラリとでも僕達の現実は?
僕がピクサーを評価する最大の点の一つは
「危険な演出から逃げない」事です。「モンスターズ・インク」では子供を泣かす大人(モンスター)達を描き、「バグズ・ライフ」は弱肉強食を描き、「トイ・ストーリー1」は子供に破壊されたオモチャ達を無残なフリークスとして描き、「トイ・ストーリー2」は捨てられるオモチャ達を描いた。ピクサーは幼い子供に見せるには少し残酷な事をガンガン描きながらも、
子供に対する優しい視線だけは絶対に忘れない。「優しい」だけの映画だったら教育アニメで十分だけど、ピクサーは「怖さ」から逃げずに「優しさ」を描くからその「優しさ」が嘘じゃなくなる。だからピクサーは素敵な映画が撮れるんだと思う。
さて「ファインディング・ニモ」の怖い演出はやはり「食べる」事にあります。登場人物のほとんどが
寿司のネタいたいけな小魚なんですから、当然劇中「食べられそうになるシーン」はガンガン出てくきますし、もちろん
死体も出てきます。だからといって直接的な演出は無いのですが・・・
最後の最後に食べます!あービックリした。
最初に泣かせる系じゃないと書いたけど、もちろんクライマックスにはピクサーお得意の大感動シーンがあります。でもいいか!
これはただのお子様向け映画では無い!血の匂いを嗅いだ殺し屋達が暴れ、魚雷が発射され、機雷が爆発し、臆病者と呼ばれた男が鮫を爆弾で倒し、ギャング達が脱走を企み、EACをエクストリームアクションで切り抜け、絶体絶命の状況にカンフーで立ち向かい、人間がドリルで刺され、炎の山のリング・オブ・ファイヤーを目指し、S・H・Yという言葉に全ての謎が込められている映画なのだ!
まだまだ色々書きたいことはあるけど、それはまた別の機会に。