世界中の映画評論家が「”アイデンティティー”」の評に頭を悩ませているに違いありません。何故なら「”アイデンティティー”」は
面白い映画なのにその面白さを伝える事ができない。「”アイデンティティー”」の面白さは映画全体に仕掛けられた説明のしようが無いトリックにあるのです。
それを考えると素人がHTML使ってネット上に感想書くというのは随分とお気楽な作業なんだなぁ。ところで僕と同じ誕生日の人っています?
「”アイデンティティー”」はサスペンスとトリックを90分キッカリにまとめあげた良品の映画です。その内容は・・・
荒野の中にポツンとあるモーテル(傑作古典の「サイコ」を連想させる)。豪雨で道路が冠水してこのモーテルは陸の孤島となる。もちろん電話線は切れるし、ケータイも圏外だ。このモーテルに11人の男女が集まってくる。
まず夫(1)と妻(2)と幼い子供(3)の家族連れ(再婚)。妻は交通事故に遭って重体となる。またその交通事故を起こしてしまったのはジョン・キューザック演じる運転手(4)とその雇い主であるレベッカ・デモーネイ演じる女優(5)。何とか救急車を呼ぼうとする運転手が途中で合流するのは、故郷へ帰ろうとしている娼婦(6)、浮気性の男(7)とクレア・デュバル演じるその恋人(8)。しかし結局救急車も呼べず、彼らは全員モーテルで待機する羽目に。そこへレイ・リオッタ演じる刑事(9)が移送中の凶悪犯(10)を連れてモーテルに来る。また下衆なモーテルの管理人(11)も物語に加わる。
この11人の特徴は観客が完全に把握できるよう丁寧に、かつ非常に
素早く説明されます。この時点で「”アイデンティティー”」が
サスペンス映画としてかなりの力量を持っている事がわかります。脚本は省略の芸術であり、ダラダラと人物や状況を説明しているのはダメな脚本なのです。脚本は完全である必要は無い、人物を表現するには役者の力に頼れば良くて、状況を観客に把握させるには監督の力に頼れば済む話なのです。
また本編はモーテルだけで話が展開するわけではありません。サブプロットとしてモーテル以外の場所でもストーリーが展開されます。それは判事の執務室です。判事の執務室では現在移送中の凶悪犯に対する再審理のようなものが行われ、判事(観客)に対して弁護人が凶悪犯の特徴を説明をしています。「彼は精神状態が異常でして・・・。」
メインプロットは当然モーテルの11人。この11人が
1人ずつ何者かに殺されていきます。そして死体の傍には必ずモーテルの鍵があって、その鍵のルーム番号は事件が起きるたびに10、9、8と減っていく。逃げた凶悪犯(10)が犯人なのか?それとも精神異常の凶悪犯は別にいるのか?モーテルに隠された秘密とは?
実に古い、古臭い。地味で古臭い演出を効果的に使っているとはいえ、まるでアガサ・クリスティのような古典的なサスペンス、もしくはサイコのような初期ホラー映画のような感覚です。しかも途中でオカルトじみた話も出てくるし・・・。
ところがそう考えた時点でもう騙されている。もう既に想像を絶するトリックは始まっているのです。実は全くの偶然で集まったはずの11人には意外な共通点が・・・それは
全員誕生日が5月10日だったのです!ってことはただの殺人鬼モノではないのか?全ては必然なのか、それとも偶然なのか?この11人がモーテルに集まった意味は・・・?
映画ファンなら全員鑑賞中にツッコミ入れたでしょう。
「っていうかレイ・リオッタは問答無用で怪しいだろ!」と。死体の傍らにある鍵を発見するのは必ずレイ・リオッタ(外見も演技も悪人にしか見えない俳優)です。またレイ・リオッタ演じる刑事はパトカーに無線機を持っているのですが、それを実際に使うシーンは一度も無く「無線は通じない」と主張するのみ、ということはレイ・リオッタは刑事ではなくて実は移送中の凶悪犯なのでは!?
深読みする映画ファンなら「ジョン・キューザックか?」と思ったかもしれません(僕も)。モーテルの11人は全て”豪雨のせいで抜けられなくなった、例外は管理人と交通事故に遭った家族”で、その交通事故を起こしたのはジョン・キューザック。また凶悪犯は精神異常者で、ジョン・キューザックは精神病の療養中でもあります。
この推理のどっちか片方は的中します。しかしそれすらも
映画の真のトリックから観客の目を逸らすミス・ディレクションでしかないのです。映画のトリックにはもっとスゴイ事実が待っている。
「”アイデンティティー”」が優れたトリック映画になっている最大の理由は、その想像を絶するトリックを
途中であっさりとバラす事にあります。このトリックは普通だったら観客が激怒する系統のモノですが、「”アイデンティティー”」は
観客を怒らせるどころか見事に納得させる。トリック暴露のシーンは
「それじゃあ観客の皆さん、この映画のトリックとそのルールを把握しましたね?ではこのルールを意識して再びあの世界へ行きましょう、映画のクライマックスが始まるのですから。」という意味を持っているのです。
僕はトリック映画が大好きなんです。トリック映画の面白い点は衝撃のトリックをクライマックス以降でバラし、そのまま映画は幕を引き、観客はトリックの衝撃を受けたまま映画館から帰る羽目になる事だと思う。映画館の中で映画という嘘を観続けて、映画の中でトリックという嘘を観続けて、その
両方の嘘から目覚める事が出来ないまま街の中を歩く感覚。僕はあの感覚が大好きだ。
でもクライマックスに入る前にトリックをバラす「”アイデンティティー”」にその要素は無いなぁと思っていたら・・・まさか
もっとスゴい衝撃が最後にあったとは!
その他の感想
● アマンダ・ピートいいぜ!レベッカ・デモーネイ上手い!クレア・デュバルは泣いてばっかりで残念だったなぁ。という感想が
今回は書けないんだよ、だってクソデブだし!
●
この映画観終わって家に帰って掲示板を読んでみたら、ちょっと怪しいカキコがありました。調べて見ると複数のハンドルが全部同じ人だった!これも「”アイデンティティー”」に関するトリックなのか!(ただの捨てハンだって)
● しかし実際にトリックに触れなくても感想は書けるもんだなぁ。