破壊屋200720062005

超映画批評   

映画掲示板で話題になったんですが、映画批評家の前田有一氏の批評が酷い。いや、まあ僕よりは遥かにマシなのは確実ですが、この人を映画を観るプロとした場合ちょっと…。

以下、緑色の部分は全て前田有一の超映画批評からの引用、もしくは前田有一氏の文章を僕がまとめたものです。


まず『クライング・フィスト』で以下の点を批判しているのですが

精一杯戦った二人の男が、試合終了後に互いをねぎらう様子がほとんどない点
お互い、それぞれの知人となきながら抱き合ってはいるが、肝心の対戦相手側には何もしない。

一体何を観ていたんだ?この人は本当に映画批評家なのか?ちゃんと[試合終了後に拳を合わせるシーンと、お互い抱き合うシーンがあるじゃん。台詞でお互いの健闘を称えなかったのが不満なのかもしれないけれど、あの状況で台詞を入れたらおかしいでしょう。]
例えば漫画『はじめの一歩』で、試合前に一歩とリング外のコミュニケーションが無かった選手がいたとします。その場合は、試合後に一歩が相手とリング外のドラマに決着をつけることは出来ないでしょう。『クライング・フィスト』だと[リング内でお互い抱き合った以上、彼らがリング外のお互いのドラマに干渉するのは物語的におかしいです]。
っていうか「肝心の対戦相手側には何もしない。」って何をしないの?『クライング・フィスト』の[二人は今までお互いのことを知らなかったのに。試合の相手が決まったのは前日でしょ。しかも相手選手のことを意識しているのはお互いのセコンドで、選手たち本人は相手のことをそれほど認識していません]。彼らは自分のなけなしのプライドのために戦っているのです。

さらに実際のニュースからインスパイアされたことを揶揄していますが、ニュースにインスパイアされるくらい別にいいのでわ?いや、嫌いな作品のインスパイアが許せない気持ちは非常によくわかるんですが、ニュースからのインスパイアがダメなら、クローネンバーグもダメなのでしょうか?エド・ゲインにインスパイアされた数々の映画はどうなるんでしょうか?

それに僕はこの映画のボクシングシーンは、編集でごまかした他のボクシング映画よりずっと良いと思うんですけど。


『クライング・フィスト』が問題になったんで、僕もちょっと他の批評も読んだのですが、『Vフォー・ヴェンデッタ』も凄い。
「サッチャー政権による政治を実際に欧州で体験したものでないと楽しむことが出来ない映画」と評しているんですが、本気でそんな批評を書いているのでしょうか?っていうかさ、サッチャー政権云々は原作のことで、映画版はサッチャー政権あんまし関係ないじゃん。この映画は米独合作だぞ。監督のジェームズ・マクティーグがオーストラリア出身なだけで、脚色したウォシャウスキー兄弟と製作のジョエル・シルヴァーはアメリカ人じゃん。

さらに「作中で引用される各種文学のもとネタ」もわかってないとダメらしいです。『Vフォー・ヴェンデッタ』はシェークスピアの『マクベス』やアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』も読まないと楽しめない映画なのでしょうか?まあ退屈した人は多いと思うけど(この映画を誉めている僕もぶっちゃけ退屈だった)。(続く)

2006/05/28|▼この記事の直リンク先

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超映画批評   

『隠された記憶』でも

主人公の小心さを最初にあらわした場面(彼がそうした性格であることは、作中何度も強調される重要要素)

って僕は主人公の小心さなんて強調されているように感じません。むしろ得たいの知れないモノに対して、主人公は一般人以上のきつ然とした態度を取っています。主人公の心理がちょっとおかしいのは小心だからじゃなくて、自分のやましさに気が付いていないからですって。

『隠された記憶』は、(ブルジョワ階級のフランス人である)主人公のやましさがフランスの歴史問題のメタファーになっています。
フランスは過去にアルジェリアを植民地のように支配していた歴史がある。そしてアルジェリアからフランスにやって来た移民たちはフランス人に差別されている意識がある。
という登場人物たちの意識化にある背景が、映画の最も重要な要素でしょう。台詞でもちゃんと説明があったはずです。


あと『単騎、千里を走る。』も。まあ僕は『単騎、千里を走る。』は今年のワースト3に入るくらい苦手な作品(チャン・イーモウは大好きだったのに…)ですが。
前田有一氏の感想は「中国人が日本人に対して善人だから、これは架空の国のおとぎばなし」という風にしか読み取れない。
確かに登場人物全員が善人なのは特異な点で、このインタビューでは「作品の中で不思議に思ったのは、映画の中に出てくる中国人がみんな、善良だったことです。どこの国に行っても、旅人に対して悪いことをしようとする人はいるものだと思うのですが?」とツッコミを受けて、チャン・イーモウが返答しています。
でも中国の村描写を丹念に撮り続けて世界的名声を得たチャン・イーモウが久しぶりにリアリズム路線で撮った映画を「架空の国」と評するのはどうかと。この中国映画の題材は「現代の京劇」と(中国人にとって最も重要な物語の一つである)「関羽の千里行」なのに、それがわからないのでしょうか。
『鬼が来た!』を観て「日本兵にも良い人がいただなんてあり得ない」と言っている日本嫌いの中国人と似たような事だと思います。


うんでこれはたまたま検索で見つけたんですが、『ロボッツ』の批評が凄いことになっています。

グローバリズムの象徴たる悪の儲け主義経営者を、貧乏労働者の象徴のような主人公とその仲間たちが、知恵と勇気を振り絞って打ち倒す、大まかに言えばそういうストーリーである。まあ要するに、古今東西たくさん作られてきた人民による革命映画、左翼的な政治映画の一種である。彼らの理想というか、永遠の悲願を子供アニメの体裁で作り上げた作品といえる。

『Vフォー・ヴェンデッタ』と読み間違えたのかと思った。えーこの映画の真の悪役は経営者のラチェットじゃなくてマダム・ガスケットです。だから[単なるエリート主義のラチェットは罰は受けても殺されないの対して、マダム・ガスケットは皆に駆逐されるんです]。
それに貧乏労働者なのは主人公じゃなくて、主人公の父親でしょう。っていうかこの映画に出てくる主要キャラのうち労働者って主人公の父親だけですよ。主人公の仲間たちはほとんどニートと化しています。
そんでもって彼らのモデルはアメリカの貧困層ですって。劇中ロボットのメンテナンスが行われなくなるシーンで、ロボット達が誰も保険証を持っていない事が判明するギャグがあるじゃないですか(アメリカでは日本のような国民医療保険が無く、民間の保険会社と契約する。そのため貧困層に非加入者が多い)。

ラチェットのやってる事は確かに現代社会に対する皮肉になっていて、前田有一氏のような極端な読み取り方も出来るでしょう。でも『ロボッツ』の物語は
ある所に良い王様が治めている国がありました。しかし悪い魔女が息子(かつその国の大臣)をそそのかして、国を支配しようとします。そこで主人公達は行方不明になってしまった王様を探し出そうとします。途中で魔女の息子と結婚されそうになっているお姫様(『ロボッツ』の場合は会社の幹部女性)と出会い、クライマックスでは遂に魔女と対決を… っていうファンタジーの超基本形をそのまま使っただけですよ。みんなは単に昔の王様(ビッグウェルド博士)を取り戻そうとしているだけですよ。

それと「彼らの理想というか、永遠の悲願を子供アニメの体裁で作り上げた作品」って言うけど、彼らって誰よ?今の世の中で革命成功が永遠の悲願な人たちって言ったら…僕はテロリストを連想するけどなぁ。
こんな評を書くなんて、[ジャズとファンクが合体するとジャンクが生まれる。ジャンクはクズかもしれないけど、それは個性的じゃないか]っていう映画のオチというかテーマを理解できなかったのでしょうか?


ところでこの人は何かアメリカ映画に対して特別なポリシーがあるのでしょうか?映画批評家を自称しているのに何故『クラッシュ』と『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と『ブロークバック・マウンテン』と『グッドナイト&グッドラック』を観に行った形跡が無いのでしょうか?別に全部観る必要は無いと思うけど(僕だって年間30本くらいの本数だったら、これらの作品も外すかもしれない)、映画批評家ならこのうちの1本くらいは…。でもこれは単に試写会に行けなかっただけかもしれないので、その場合はしょうがないと思う。

2006/05/31|▼この記事の直リンク先

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