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ブラウン・バニー   

    ヴィンセント・ギャロ。知らない人のために解説しますが、ヴィンセント・ギャロとは俳優であり、演出家であり、脚本家であり、バイクレーサーであり、カメラマンであり、音楽家でもあるマルチな才能を持った男。珍しい存在には違いないのですが、日本というか渋谷でのギャロの扱いは特殊です。
    渋谷ではなぜかギャロの存在自体がファッションになっている。ギャロの映画や写真を鑑賞することはファッションなのです。そんな珍妙な現象の中から生まれた究極のクソ映画が「ブラウン・バニー」です。(ギャロを誉めることもファッションの内に入るので、日本での批判意見は少ない)
    日本国内では「ブラウン・バニー」はアメリカ映画だと言い張っていますが、実は日米仏合作で、しかも出資金は100%日本。渋谷のギャロ文化を狙って作られたようなものです。ギャロはコントロール・フリーク(単なる超ワガママ)として有名で、「ブラウン・バニー」では主演、監督、製作、脚本、撮影、美術、音楽を全て自分で行っています。そして出来上がった作品は音楽以外は壊滅状態でした。
   「ブラウン・バニー」はカンヌ国際映画祭で公開され凄まじい大不評を買い、カンヌ映画祭史上最悪とまで呼ばれ、その騒動はニュースにまでなった。賛否両論すら起きていない、否定しかなかった。あまりの不評っぷりを受けてその後本編を30分近くもカットして公開することになりました。僕が観たのは当然その短縮版ですが、それでももう30分はカットできそうな仕上がりです。
    「ブラウン・バニー」とはどういう映画なのでしょうか?一部の人達は「ブラウン・バニー」をロードムービーだと評していますが、違う気がします。ロードムービーとは旅の映画、主人公が旅の途中で出会いがあったり事件が起きたりしてドラマが生まれる映画のことです。
    それに対して「ブラウン・バニー」は車の中にカメラを置いているだけ、窓から見える景色を写しているだけ、道路を写しているだけ、前を走る車の後部を写しているだけ。そんな映像が延々と続く。しかもそこにドラマが一切存在しない。風景だけです。風景以外のもので観客にわかるものと言ったら道の混み具合くらい。これではロードムービーとは言えません、道路ムービーです。(本当は花の名前をした女性達と出会うが、出会っても何もドラマが生まれていない。)
    ギャロファンなら「あれは心象風景じゃないの?」と擁護するかもしれない。でもそれも違う、だって劇中ギャロの心象が何も変化していないから。心象が何も変化していない、物語が何も変化していないのに、道路の映像は渋滞になったり夕焼けになったりする。映像に人間ドラマが結びついていないだけじゃない、映像が映画にすらなっていない。
   
    「ブラウン・バニー」の撮影が素晴らしいという人達もいる。でも「ブラウン・バニー」で唯一撮影が優れているのは塩の砂漠のみで、後は全てゴミです。車の中にカメラを置いて風景を写しているだけなのは優れた撮影とは言わない。道路公団が設置したカメラの映像を見て「素晴らしい映像ですね」と褒めているのと同じ。そんなのは機材さえあれば誰でも撮影が出来ます。
    もし本当にロードムービーをやりたいのならカメラは車の外に置くはずです。この場合だったら機材が揃っていても素人には撮影できません。風景の中を走る車を捉える、どこかに向かう主人公を表現する、そして映像の視点が主人公の視点になり観客の視点にもなる。これこそがプロの撮影のはず。でも「ブラウン・バニー」はそれすらも放棄した(ただし塩の砂漠ではちゃんとやっている)。
    しかも人間を写すときは人間の顔の前にカメラを置かない後頭部にカメラを置く。つまり画面に写るのは髪の毛なんです。まあこれなら演技しなくて済むからね。
    また「ブラウン・バニー」はカットという作業をあまり行っていません、何も考えずに撮影したのか(カットを行うためには撮影前に入念な準備が必要)一つのシーンを延々と同じ視点で写します。バイクを持ってきて、ヘルメットをかぶって、エンジンをかける。この一連の作業を一瞬たりともカットしないで全て見せてきます。いや、そういうテクニック的な部分はあまり問題じゃあない、ギャロにとっては全てが風景なのだからカットする意味はないのかもしれない。
    本当に問題なのは旅の途中、ギャロがメシを食ったり、飲み物を飲んだり、トイレに行ったり、顔を洗ったりするシーンすらカットしない事だ!こんなものは映画じゃない!日常だよ!日常描写ってのは効果として描くべきなのに、メインとして描いてどうするんだよ!
    そして「ブラウン・バニー」を愛の映画だと言う人もいる。あの最低のクライマックスを愛のシーンとか言ってる人もいる。でもさ・・・


警告: 「ブラウン・バニー」は衝撃のクライマックスが話題の売りです。以下はネタバレで、隠していません。各自の判断で読んでください。






    「ブラウン・バニー」の衝撃のクライマックスとは[フェラチオが延々と続くだけ]です。それも女に命令しながら。他人の性行為を見ていてここまで不愉快になったのは初めてだぞ。何でこんなシーンがずっと続くんだ?あのデカイ茶色のボカシは何なんだ?ギャロのチンポコに茶色のボカシが入るからブラウン・バニーなのか?(本当の意味は永遠の時を生きるウサギのこと)
    その女はギャロの昔の恋人なのですが、観客全員ドン引きのフェラシーンはギャロが射精して女に飲んでもらう事で終わる。そうすると自分だけ終わったギャロは女に向かって「お前とは2度と会わん」と拒絶するのです。これのどこが愛なんだよ!そもそも劇中ギャロは誰も愛していないぞ!女に対しては単に恋しがっているだけ。その証拠に自分が射精したらギャロは女を拒絶するし、フェラしてもらった女は思い出(妄想)の中の女だ。それに恋人に対してのオーラル・セックスはしてあげるのが愛だろ!してもらうのは愛じゃないぞ!
    ギャロはオナニスト(行為じゃなくて精神的な意味)なんだよ!「ブラウン・バニー」は愛の映画じゃなくて自慰の映画なの!「ブラウン・バニー」を愛の映画だと思う人は、どうしてギャロが女がレイプされたら救おうとも取り戻そうともせずに逃げ出したのかわかっているのか?ギャロは愛すことができないから、本当の意味でワガママだから逃げたんだよ。「ブラウン・バニー」はギャロの「俺は愛されたいんだ!あの娘が恋しいんだ!でも俺は愛す事ができない」というせつない悲しみに触れる映画なんだよ。そしてそんなワガママな悲しみには誰も触れる事ができないんだよ!


    「ブラウン・バニー」を評価する事が出来るのはギャロの「俺は愛されたいんだ!」というワガママを優しく見つめることのできる、ギャロを理解している女性達だけです。

    ちなみに僕が生まれて初めて映画館でブチ切れた決定的な理由はラストシーンです。


女に精子を飲んでもらったギャロは女を捨てようとする。
(この時点で僕はブチ切れそうになった)

ギャロ「2度と会いたくない、君は俺を裏切った」

女「違うわ」

ギャロ「他の男とマリファナ吸って寝ていた!」

(マリファナを吸う女が回想される)

女「私はあの男達にレイプされていたのよ!あなたは私がレイプされていると知っていたはずよ!」
(犯される女とそれを見ているだけのギャロが回想される)

ギャロ「そうさ、君がレイプされているってわかっていたけど、怖くて逃げたんだ!
(犯された女を捨てるギャロが回想される。っていうか本当にムカつくんですけど

女「あの後私は死んだのよ!
(死んだ女が回想される)


    突然女が消える。
    一人ぼっちになったギャロ。
    ギャロはどっかに行く
    END


    この瞬間僕はブチ切れて、エンドクレジットの最中に椅子を蹴りながら立ち上がり「ふざけんなこのクソ映画!」と罵りながら劇場を後にしました。
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