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ラブストーリー   ★★★★

    昔「マトリックス」のオープニングを観たときに、全身黒のスーツのヒロインが宙を舞いながら蹴りを繰り出したり、空を飛ぶかの如くビルを駆けたりして、「まるで少年マンガの実写版じゃないか!」と興奮したものです。
    でも「ラブストーリー」のオープニングを観たときは、ちょっとドジなヒロインが白い洋館の窓辺に行くとが集まっていて、その向こうにはがかかってたりして、「まるで少女マンガの実写版じゃないか!」と不安になりました(次の瞬間ヒロインのテコンドーが炸裂したので安心できますが)。だけどこの少女マンガのようなラブストーリーが実に面白い。
    映画本編のストーリーは・・・ジヘ(現代のヒロイン)が偶然ジュヒ(ジヘの母親、過去のヒロイン)の日記を見つける。日記にはジュヒとジュナ(主人公)の初恋物語が綴られていた。そしてジヘにも想い悩んでいる男性が・・・。と過去の古臭いラブストーリーと現代のラブストーリーが描かれていきます。
    この構成は非常に上手いのですが、ちょっと大きな疑問点が。これって母親の物語なんでしょう?母親の日記に描かれたラブストーリーなんでしょ?何でジュナの視点で語られるのよ?物語の人称がまるで合っていないじゃん。 例えば「タイタニック」の場合だと、お婆さんが回想を始めると物語の視点がケイト・ウィンスレットに移る。その後にディカプーの視点に映るので、物語の人称が一致していない問題を丁寧に回避しています。でも「ラブストーリー」がやってる事は、「タイタニック」でお婆さんが回想を始めるといきなりディカプーがポーカーやってるようなもんだぞ。
    過去のラブストーリーは最初は少女マンガどころか完全に小学生の恋愛レベル。子供達が川遊びをしたりフンにまみれながらフンころがしを女の子にプレゼントしたりしています。文章だと微笑ましい情景かもしれませんが、子供達を演じているのは筋骨隆々の韓国人男優達なので結構不気味です。あの韓国映画の名作「JSA」でも友情がどうしょーもない遊びで培われていったけど、韓国にとってアレは幼稚ではないのでしょうか?最初のデートシーンなんか凄いですよ、
突然夕立が振り出す

走り出す主人公とヒロイン

とうぜんヒロインは転んで足をくじく

もちろん主人公はおんぶしてあげる

雨宿りする場所を見つけて二人っきりで止むのを待つ

いつの間にかイイ感じ

    というように定められたレールの上から一瞬たりともはずれようとしない極めて安全なラブストーリーが展開します。だけどこの安全さが逆に新鮮な面白さとなっています。でもこれ邦画だったら絶対に主人公の目に、ずぶ濡れになったヒロインの透けて見えるブラの紐が入ってしまうというシーン入れるはずなのに、それすら無い。性欲の欠片もない本当に純真なラブストーリーなのです。
    このあまりにも純真なラブストーリーに、どうしようもないバカキャラ(←こいつが最高)とシラノ・ド・ベルジュラックそのまんまの設定が加わり、映画は益々マンガ的世界に落ちていきます。この純真(むしろバカ)な恋物語に、身分の違いや韓国の父権社会、しまいには学生運動と○○まで加わって映画はどんどん真面目になっていく。それは純真(かつバカ)だったことが取り柄だったジュヒとジュナ達には複雑で辛い現実なのです。この哀しさを帯びてくる過去のラブストーリーに、コミカルな現代のラブストーリーが平行して展開するで物語は停滞しません。良く出来た映画です。

    そしてもちろん過去と現代は平行しているだけじゃない、過去と現代とは繋がるもの。そして映画の純愛とは奇跡を起こすもの。でもその起きる奇跡が観客にバレバレなのがちょっとなぁ。
    撮影が妙に懲りすぎているのも気になりました。ジュナが恋沙汰に破れるシーンで逆ズームが発生したり(カメラを引きながらズームする手法、「ジョーズ」でスピルバーグが使ったのが有名)、フォークダンスの会場でカメラがマトリックス並みにグルングルン回ったのはどーかと思うぞ。

シラノ・ド・ベルジュラック:フランスの純愛戯曲。文才はあるが大鼻のシラノ・ド・ベルジュラックは美しいロクサーヌを愛していた。しかしロクサーヌは文才の無い美男子のクリスチャンを愛していた。そこでシラノはクリスチャンの代筆をしてロクサーヌに恋文を送り続ける・・・
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