2004ベスト&ワーストの時に続いて、ちょっと人様の映画の感想にイチャモンつけます。2004ベスト&ワーストの時も書いたけど本当はこーいうことやりたくない。僕は映画評論家でもライターでもなくて素人の映画ファンなので、映画にイチャモンをつけるのなら、入場料払って観た映画や、購入した雑誌や新聞やパンフの映画評にしておきたい。自分でも映画サイト同士のケンカとかは見ていて悲しくなる。「スクール・オブ・ロック」で秘宝系が論争になったときとかそうだった。「パッチギ!」も頑張って擁護するほど優れた映画でもない。しかもその人様が
プロの映画評論家の
前田有一氏なので色々問題がありそうです(実は2004ベスト&ワーストの時のブラウン・バニーの批評も、超有名ライターの山崎洋一郎氏が書いたものでした)。でも
一番の問題は問題点が朝鮮問題ということなんだよね。朝鮮問題なんて、ちょっとでもどっちか寄り(
というか左寄り)の発言をしようものなら、猛攻撃を開始する人多数。実際以前の僕の「パッチギ!」の感想で大変激怒した人がいたらしいです。そんなにムカついたのなら、あの文章は
「日本人が朝鮮人をコンクリ漬けにするシーンで胸がスッとしました。」にでも脳内変換しておいてください。一応言っておきますが、僕は
政治的なことを言うつもりは無いですし、映画の中で
特定の人種がポシティブに描かれていたからって、それを鵜呑みにしたりもしません。
本来なら触らぬ神に祟りなしですが、まあ別に神はいないし、僕は朝鮮について語る気はまるで無いし、「パッチギ!」について語りたいだけだから大丈夫でしょう、きっと大丈夫、多分大丈夫、もしかして大丈夫。
以下、
緑色の文章は
前田有一氏の超映画批評の「パッチギ!」論からの引用です。
前田氏は「パッチギ!」を
「反日風味がたっぷり」と批判しています。その反日風味の一つとして前田氏は
「無知な日本人少年が朝鮮語を勉強」と書くけど、アレは少年の
好きな女の子が外国人だから外国語を勉強しているだけです。日韓の問題とかは関係なくヨン様のためにハングル語を勉強するおばさん達と同じです。それに朝鮮人達は朝鮮学校内でも日本語で喋っていたじゃないですか。
また前田氏は少年が
「彼らに溶け込むよう努力」しているのも批判しています。少年は朝鮮人のお祝い事の際にギターの流しに行きますが、アレは
好きな女の子とセッションするのが目的に決まってるじゃないですか!主人公にとって朝鮮人にギターでウケてもらうのは、「将を射んとせば、まず馬を射よ」の要領ですよ。付き合ってる異性の家に行ったら、その家族や親戚に気に入ってもらおうとするのは当たり前じゃないですか!少年の行動原理は
朝鮮との友好のためではなくて、好きな女の子と仲良くなるためです。
そして
「「祖先が起こした過去の犯罪的行為」とやらを彼らから知らされショックを受けながらも」って
ショックを受けた理由はそれじゃあないですよ。アレは少年が朝鮮人と日本人の間に流れる溝というか
橋がかかることのない川の存在に気がついてしまったからです。だから少年は川の上でとても大切な、自分と朝鮮人を結んでくれた[
ギターを破壊して川に捨てる]。[
友達が亡くなって弔いに行ったのに、好きな女の子の前だったのに、せっかく同年代の朝鮮人と仲良くなったと思ったのに、川なんてずぶ濡れになっても渡りきったと思ったのに]、それなのに朝鮮人達に拒否されて
悲しくて悲しくてやりきれなくなったんですよ。
とはいえ僕はこのシーンを観て怒る人達の気持ちもわかります。朝鮮側からの恨み節が一方的です。でもああいう朝鮮人が一方的に文句言ってくるのはウチラ日本人が一番よく知っていることじゃないですか。政治的バランスはともかくとして物語としては重要で必要なシーンですし、プロットとしても自然ですよ。このシーンがあるからこそ、少年が[
一度歌とギターを捨てたけど]、朝鮮と日本の問題なんか
どうすりゃいいかわからないから、[
そのもどかしい気持ちを抱えてイムジン川を歌う]シーンが生きてくるのです。
「この映画では朝鮮人側が日本人の立場を思いやったり、歩み寄ってゆく様子がほとんど伺えない。日本人の主人公は彼らの立場を必死に理解しようとし、また歩み寄っているが、彼らの方は結局日本を認めてはいない。 」
前田氏は途中で怒って劇場から出てしまったのかもしれませんが、ラストまで見ればわかります。朝鮮最強の不良は、[
北朝鮮に帰ってサッカー選手になってワールドカップに出場する夢を捨てて、日本で日本人と共に普通に暮らして]いきます(再戦もあるんだっけ?)。それに主人公は女の子からの
「あんた朝鮮人になってくれるの?」という問いに[
ショックを感じたまま何も答えを出していない]。ほぼ間違いなく[
主人公は朝鮮人にはなりません。そして主人公とヒロインは普通に日本で日本語でデートしています]。
「彼らの方は結局日本を認めてはいない」って朝鮮人が少年を相棒として、朝鮮人が少年を弔いの客としても認めるシーンがあるじゃないですか。
さらに前田氏は
「ケンカして友情らしきものが芽生える様子や、国籍を超えた愛などをそれらしく描いていても、しょせんは薄っぺらい奇麗事ではないか。」と批判します。
この映画がクソくだらない映画だったら、
朝鮮人の女の子と日本人の男の子の間に川が流れていて、男の子は川へ飛び込み、ずぶ濡れになっても渡り切って女の子の元へ辿り着いて、二人は結ばれる…とかいうシーンがあったでしょう。
少年を追い出した朝鮮人がラジオで主人公の歌を聞いて、彼を赦すシーンがあったでしょう。
クライマックスの大決戦の後、朝鮮人達と日本人達は和解したでしょう。
朝鮮人を遠ざけていた母親が受け入れるシーンがあるでしょう。でも
そんなくだらないシーンは無い。男の子はずぶ濡れになっても渡り切った先で「あんた朝鮮人になってくれるの?」と言われて[
文字通り真っ暗]になります。
朝鮮人達と日本人達は殴って殴って殴って殴って…………殴って殴って殴ってそれでも決着つかなかったんで、また今度殴り合うことにします。少年が[
イムジン川を歌っても朝鮮人と日本人は仲良くなりません。でも少年の元へは、好きな人が橋を渡ってやってきてくれます。少年は愛を込めて少女に告白する!「やらせてくれ!」]。これが「パッチギ!」のラストシーンなわけですが、これは人によって捉え方が違うでしょうし、面白いかつまらないかは別なんですが、僕には薄っぺらい奇麗事には見えませんでした。それに黒人と白人とか、イギリス人とアイルランド人とか、モンタギューとキャピュレットとか、一等船室と三等船室とか、溝を越えた友情や愛情は薄っぺらい奇麗事かもしれませんが、物語の基本ですよ。
「劇中で語られる歴史認識にしても、彼らからの一方的な言い分をゴメンナサイと受け入れるのではなく」というのもあるのですが、
少年は不良(朝鮮人)に睨まれてビビったりするけど、朝鮮と日本の問題について一度もゴメンナサイしていません。それどころか劇中誰もゴメンナサイなんてしていない。主人公とチェドキを除いて誰も
自分たちが殴り合っていることにすら疑問を持っていない。彼らは
元気良く殴り合う事を選びます。
映画評論家の前田氏は「パッチギ!」論のタイトルを
「朝鮮人には謝罪して、友達になっていただく」でいいのか?とつけています。
「世界は愛で変えられる」なんていうアホみたいな「パッチギ!」のキャッチコピーは使いたくないので、僕なりの考えを言いますが、「パッチギ!」には朝鮮人に謝罪するシーンも、
朝鮮人に謝罪しなきゃと思わせるシーンも。朝鮮人に
友達になっていただこうとするシーンもない(逆に朝鮮人が日本人に友情を求めるシーンはあるけど)。朝鮮人も日本人もお互いの問題は放置しています。もちろん朝鮮との問題に切り込んでいる部分も強く存在しますし、井筒監督や李鳳宇プロデューサーはそういった発言をしたり、「パッチギ!」にその想いを込めているのかもしれません(僕はパンフと秘宝しか読んでいない)。
だけど僕が「パッチギ!」から感じたメッセージは、朝鮮人と日本人は政治的にも感情的にも問題ありすぎて、
仲良くなるの無理、殴り合うしかない。でもいつか男と女が
乳繰り合いでも始めて、その内仲良くなるんじゃない?というある種
無責任で楽天的だけど前向きなメッセージです。
ホント、今回は異例のことやってしまったので、
不愉快になってしまった方には申し訳ない。でも映画本編を観ていないで前田氏の「パッチギ!」論を読んで真に受けて、「パッチギ!」批判しているサイトがいくつかあったりもしたので、僕がここで書くのもアリかなと。あ、これは
破壊屋の「デビルマン」と同じ現象(さらに言うとセカチューの喰わず嫌い)か、あの時は誉められたけどなぁ。でもこーいった批判よりも、
「映画観たけど、朝鮮人に感情移入できるような映画なんでクソ映画だと思いました」みたいなほうがまだ素直な批判の仕方だと思います。……それと「パッチギ!」に限らず
僕の感想も真に受けないでね!いつもメチャクチャなこと書いてあるんだから。
「パッチギ!」の出だしはこんな感じ。
日本の伝統の街、京都。そこでチマ・チョゴリを着た女学生達に日本人達が絡んでくる。日本人達は少女のチマ・チョゴリを汚し、嘲笑う。その時!京都の道を無数の朝鮮人達が爆走してやって来た!!朝鮮人達は瞬く間に日本人を倒し、さらにバスを襲撃。その団結力によってバスも倒す。
いやー
朝鮮人が日本人をボコボコにするシーンでこんなに心が踊るとは思いませんでしたよ。
僕は「月はどっちに出ている」「GO」を傑作だと思っている。だから在日を扱った映画はなるべく観に行くようにしている。
在日を扱った映画には面白いのが多いのです。もちろん「パッチギ!」もその一つでした。
「パッチギ!」は宣伝だと「ロミオとジュリエット」に比較されているけど、それよりもミュージカルの
「ウエストサイド物語」に近い。白人系移民のジェット団が日本人で、プエルトリコ系移民のシャーク団が朝鮮人。トニーとマリアはもちろん主人公:松山とヒロイン:キョンジャ(民族は逆)。マリアの兄:ベルナルドは当然キョンジャの兄:アンソン。また「ウエストサイド物語」にはベルナルドの恋人でアニタという重要キャラがいるんだけど、これは二つのキャラに分割されて、アンソンの彼女と、気風の良い看護婦ガンジャになっている。「ウエストサイド物語」はミュージカルだけど、「パッチギ!」はケンカの映画。日本人も朝鮮人も
踊る代わりに最初から最後までケンカをしている。そしてクライマックスではクインテットの代わりに、ハングル語と日本語が混じったイムジン河を歌うのです。
「パッチギ!」は何が素晴らしいって、
「朝鮮人も日本人もお互い歩み寄ればきっと平和な…」なんていう
ウザッたいシーンが無いことです(「月はどっちに出ている」「GO」にも無かったな)。大体今のご時世、朝鮮と日本には拉致問題を筆頭に様々な火種を抱えていて、そんな時に朝鮮人と日本人の友愛を見せられても難しいものがある。そこで「パッチギ!」は朝鮮人と日本人に
友愛よりも殴り合いを推奨する。
もちろん「パッチギ!」には朝鮮と日本の友好を願う強烈なメッセージを送ってくる。[
主人公とヒロインは普通の恋人同士になれた。ライオンと豹の合いの子レオポンを見たがっていた女の子は、朝鮮人と日本人の合いの子を産んで幸せな家族になった。主人公と朝鮮人達の友情も観ていて嬉しい気分になる。]これらのシーンには将来への希望が込められている。
でも”将来への希望”はあくまでもラストシーンの話、劇中本編は誰一人として
反省することなくケンカを繰り広げる。しかも[
最後まで仲良くなるシーンは無い、それどころか朝鮮人達と日本人達は再戦の約束までする]。「パッチギ!」には知性は無いが嘘偽りも無い。「パッチギ!」は乱暴だけど優しさがある。
「月はどっちに出ている」「GO」「パッチギ!」。これらの映画には”在日”以外にも、もう一つ共通点があります。どれも
朝鮮人たちが疾走しているのです。「月はどっちに出ている」は闇の中を、「GO」は地下鉄の中を、「パッチギ!」は京都の町並みを。
故郷の北朝鮮はどーしようもなくボロボロ、住んでいる日本では肩身の狭い思いで生きている。そんな在日朝鮮人達が、日本人からの差別も嫌悪感も吹き飛ばし、
日本を走り抜く姿は実に痛快。
● 松山
朝鮮人から日本人のした酷い仕打ちを聞いて、「アアッー!もう!!」って苦しんで悲しくなって、何も出来なくなる。でも日本人は苦しんだり、逆に疑問に思ったりできるから
マシだよ。北に住んでいる朝鮮人達は日本と朝鮮の問題に
何の疑問も抱かず、自分の国が正しいって信じるしかないんだから。
● アンソン最強の朝鮮人不良。チョーパン(頭突き、朝鮮高校の生徒達の必殺技として有名)の連続で倒す倒す。
● チェドキこいつの言葉が[
遺言となって映画のオチ]をつける。マトモなこと言っていれば…。
● モトキ面構え良い奴等ばっか集めたこの映画の中でも、こいつが一番面構えが良い。日本人達に捕まり
コンクリ詰め(日本のゴロツキの必殺技ですね)に遭うも、日本人みたいに
「助けて下さい!誰か助けて下さい!」と叫ぶような真似はしない。
「もっとコンクリもってこいやぁ!」と叫ぶ。
● ガンジャチマ・チョゴリ姿の不良→ガキの世話→ナース→ドロップキッカーと逞しい進化を遂げる姐御。
● キンタロー唯一の韓流。チョ・ナンカンのようなボケキャラかと思いきや、日本人と戦うために朝鮮人と共に立ち上がり、男を見せる。