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消えた天使   ★★

傑作『インファナル・アフェア』のアンドリュー・ラウ監督がハリウッドに呼ばれて監督したサスペンス映画だが、珍作。リチャード・ギアの最新作でアヴリル・ラヴィーンが出演しているにも関わらず、アメリカでもまだ公開されていない(映画会社が別の監督に追加撮影と再編集を命じたため、何度か延期となって今秋公開予定)。実際鑑賞すると「そりゃあアメリカ公開は難しいわな」といった内容だった。

映画はまずまずの面白さだけど、ガチャガチャした編集でサスペンスを盛り上げるのが興ざめ。しかし本作の特異な点はそこではない。


アメリカではミーガン法というのがあって、性犯罪者の出所情報は公表されネットで閲覧できる。そしてリチャード・ギア演じる本作の主人公は、出所した元・性犯罪者たちを監視するお役所の公務員。ただし本作はこの制度そのものを描くような作品ではない。性犯罪の実態や被害者を描いた作品でもない。リチャード・ギアがひたすら元・性犯罪者たちに嫌がらせをしている映画である

映画の本筋は誘拐事件の捜査と、元・性犯罪者たちへの憎悪に取りつかれるギアの苦しみなんだけど、その要素を無視するとギアが元・性犯罪者たちをドツキ回しているようにしか見えない。以下その路線でストーリー解説。


【以下ネタバレ】


オマケ:
ちょっと呆れた文章発見。以下は宮台真司氏のアンドリュー・ラウ監督『消えた天使』の解説を書きましたからの引用。読むのが非常にメンドイ。

エロル(ギア)の英雄ぶりを日本人が理解できるか
〈社会〉でマトモだとされる感情プログラムのインストールに失敗したコミュニケーション困難な存在を〈脱社会的存在〉と私は呼ぶ。
(中略)
但し常人的感情プログラムを超えることと犯罪を犯すことは直結しない。「柔和な〈脱社会的存在〉」があり得るのだ。
(中略)
政治家であれ市民であれかかる「社会性を帯びた脱法行為」の社会性を担保するものは何かが問題になる。逆説的だがこの社会性は〈脱社会的存在〉――ビオラに同類だと詰られたエロルの如き――こそが最もよく帯び得る。〈社会〉のありそうもなさを誰よりも弁えるからだ。それだけでは足りない。ありそうもない〈社会〉にコミットするにはそれを神の被造物と見做すが如き宗教性が必要になる。
犯罪や逸脱など無秩序が異常なのではなく、秩序が成立していることの方が異常だとする発想を、社会学ではデュルケーム的伝統と呼ぶ。政治学では自然法を重視するロックでなく、自然権を重視するホッブズ的な伝統に連なる。現にホッブズは君主を市民的善悪を超えた怪物(リヴァイアサン)と見做す。怪物が猫の皮を被った時にだけ秩序は有効に護持される。
(中略)
非常時を起点とした思考伝統が覆う米国ではエロルはやはり英雄なのだ。
その意味で、平時におけるセルフイメージの維持に汲々とするだけの日本の自称左翼や自称右翼すなわち日本の自称左翼や自称右翼すなわちヘタレ左翼やヘタレ右翼には、アンドリュー・ラウ監督が米国映画を作るに際し、なぜ性犯罪累犯者とメーガン法を素材としたのかは、永久に理解できないことだろう。

って、この人は本当に映画を観たのか?映画会社もこんな自分の思想的主張ばっかで小難しいだけの文章を書く奴に解説書かせるなよ(それが許されるのは観客だけだ)!書かせるんだったら、宮台真司氏にわかりやすい文章を書けるプログラムをインストールさせてからにしてくれ。
中国系のアンドリュー・ラウが描いたのは、凶悪性犯罪という業(カルマ)に囚われてしまうギアの姿であり、アメリカン・ヒーローでは無いし、そこに政治思想や社会思想は関係無い。それに劇中登場するアメリカ的な登場人物は、法に則った人物でありながら非常時には法を逸脱し、観客の意志を代弁して美容師をぶん殴り、ラストシーンで自分の生き様を見つけるクレア・デーンズのほうだろ。映画を理解できずに「右翼や左翼は本作を理解できない」という結論を、本気で書いているのが恐ろしい。

2007-08-28

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