服部と前田と言えば悪名高い映画ライターの2トップだ。しかしこの二人に負けないくらいのトンデモ映画評論家が存在した!その名は福本次郎!もうとにかく酷い。映画評論家なのに映画を理解できないという致命的な特殊能力の持ち主だ。理解できないので間違った映画評論をテキトーに書いている。今、福本次郎が破壊屋周辺でのみ話題沸騰になっているのでまとめてみたぞ。
まず『スカイ・クロラ』評が酷い。『スカイ・クロラ』という映画は押井守の言いたいことがハッキリとわかる作品だ。
[いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる。]
[いつも通る道だからって、景色は同じじゃない。]
↑これが押井守が『スカイ・クロラ』で観客に伝えようとしたことだ。この文章は劇中のセリフにも公式サイトにもある。しかし福本次郎はこの意味がわからなかった。以下は福本次郎の『スカイ・クロラ』評論からの引用だ。
ここで描かれているのは文字通りゲームの中の出来事で、観客はコントローラを持たないプレーヤーのようなもの。しくじって撃墜されても、また次に遊ぶ時には別のキャラが選べる上、プレーヤーの操作能力は継承されている。
確かにゲーム的ループ感を持つ映画だが、その世界観が今の若者の状況を描いていることが全くわかっていない。
彼らは感情があるように見えるが所詮「ゲームのキャラ」、要するにWii用フライトシューティングゲームソフトの世界観を観客に体感させようとするタイアップ商法なのだ。
福本次郎はゲームソフトが販売されている映画(スピードレーサーとか)を観ると、「タイアップ商法」「ゲームソフトのプロモーション映画」って批判するのだ。おいおい、他メディアに展開している映画なんて一杯あるだろ。ニンテンドーDSなら映画ゲームなんてたくさんあるぞ。マクドナルドでキャンペーンしている映画たちは「ハンバーガーを売るために作られた映画」だと思っているのか?
福本次郎は『スカイ・クロラ』をゲーム映画だと断じたために、こんな酷い文章まで書いている。
「トイ・ストーリー」のように無生物の哀しみをストレートに主張したほうが楽しめたに違いない。
何も理解できてないことを自分からアピールしていてちょっと面白い映画評論だ。
動機が明示されないために狂人にしか見えなかった。
(中略)
結局のところ何を目指しているのだろうか。
この文章のツッコミどころは以下の3点。
福本次郎はジョーカーを理解できなかったために、ハービーが[トゥーフェイス]となる意味も勘違いした。[光の騎士ではなくて、闇の騎士(ダークナイト)]が確立するラストシーンが理解できなかった。だから以下のような結論を書いた。
[バットマンはジョーカーを殺さず、カラクリを知ったハービーは善悪半面の顔になる]。正義が一番必要としているのは悪の存在。
これは最低の映画評論だ。他の映画評論は笑いながら読めたがこの評論はムカついた。『君のためなら千回でも』という素晴らしい映画に対して、福本次郎は最低の勘違いをしている。
アミールとの間に厳然と存在する階級。ハッサンはそれを意識し始め、アミールに対して召使の目になり、何をされても反抗せず受け入れる。
(中略)
友達のままでいたいと思っているアミールはそんなハッサンの態度が気に入らず、疎遠になっていく。
(中略)
大空に舞う凧はどんな強い逆風を受けても決して流されない民族のプライドを象徴しているようだった。
さらに福本次郎はハッサンとアミール疎遠になっていく原因として「大人の事情を理解し始めた年頃」と指摘していた。
福本次郎は演出や演技の意図が理解できない男だ。だからハッサンが[レイプされた]ことに気が付いていない。ハッサンが不良少年たちに[レイプされた]時、アミールは怖くて助けに行けなかった。アミールにとってハッサンの存在自体が自分の不名誉の証となった。だからアミールはハッサンに対して残酷な態度を取るようになったのだ。だから大人になったアミールは少年時代の贖罪を果たすため、ハッサンの息子を助けにタリバンのところに行くんだよ。「友達のままでいたいと思っているのに、そんな態度が気に入らず」って何ふざけたこと書いているんだ?女性をレイプしようとするソ連兵にアミールの父親が立ち向かうシーンの意味がわからなかったのか?
それに「民族のプライドを象徴」だって?アミールがパシュトゥーン人でハッサンが被差別側のハザラ人だってことがわからなかったのか?(ただし[アミールとハッサンは異母兄弟])。凧が象徴するのは民族のプライドじゃなくてアミールとハッサンの絆だよ!福本次郎の「凧は決して流されない」というのも間違っている。凧というものは「流されない」ではなくて[強い逆風を受けることで高く上がるものだ。アミールとハッサンの絆も辛すぎることがあったけど、その絆が再び結ばれて空高く上がる]。あのラストシーンはそういう意味だよ。
福本次郎のトンデモ評論はまだまだたくさんある。その一部を紹介する。
男のロマンを理解できない女の狭量さが、物語の足を引っ張る。せっかくエドワードという友を得たのだから、カーターもたまっていたリビドーを解放してもよかったのではないだろうか。
リビドーを解放?うわあこいつ最低。余命わずかの夫が自分の元にいてくれない妻の悲しみがわからないのか?エドワードがそれをカーターに気づかせようとしたのがわからないのか?[それに気がついたカーターがリビドーを解放せずに愛する妻の元へ戻る意味がわからないのか?]
小さな赤い魚たちが黒く大きなうねりに変化し、津波となって宗介たちの街を襲う。それはポニョの掟破りに対する大いなる海の怒り。
小さな赤い魚たちはポニョの妹で、ポニョを応援しているだけだよ!
クライマックスでは、闇のグループと戦うために馬上の騎士をなるニコラス。
馬上の騎士って………この映画のモチーフが西部劇だということに気がついてない。だからハリウッド映画の刑事アクションに憧れるダニーの立場(=監督の映画愛)もわからなかったんだろうねぇ↓。
上司や恋人とに会話で妙な弛緩が現れて、演出のトーンが揺らぐ。村に赴任後もコンビを組むダニーという警官を狂言回しにするのかと思いきや、彼の立場もイマイチ不鮮明。
養子に出すことが決まっている以上情が移らないほうがよいという考えから生まれる態度なのか。
映画評論家なのにアメリカでの養子に対する考え方を知らないようだ。それがわからないとこの映画を誤解してしまう(福本次郎に限らずそういう人は多い)。 ジュノは自分の赤ちゃんを幸せな夫婦に預けようとした。だから[その夫婦の幸せが壊れることを知ると泣き出した。この映画は大人になれない大人を描いているのだ]。しかし福本次郎はあのシーンの意味が全く理解できなかった。以下のような見当違いの結論を導き出す。↓の程度の脚本でアカデミー賞が取れるわけないじゃん。
さまざまな人間関係が描かれるが、共通しているのは人間同士の付き合いはお互い努力しないといい関係を保てないということだ。
こんな風にもっともらしい文章が書いてあれば、福本次郎の読者は満足するのだろう。
福本次郎はネタバレ評論家なので、自身の映画評論ではラストシーンの自分なりの解釈を書いている場合が多い。もちろんその解釈は間違っている。そんなヤツを集めてみた。
クルーソーこそ、父がアンガスに贈った最後の贈り物。それは「夢を信じろ」というメッセージだ。
全っ然違う!『ウォーター・ホース』は少年の通過儀礼の映画だよ![クルーソーとの別離を通じて父親の死を受け入れる]んだよ。
賭け金をやり取りする以上に貴重でユニークな経験をしたベンは、[その経験を武器に再び奨学金の面接に望む]。カネよりも大切なものがあることに気付き、一回り成長したベン。
えええ?[ベンはもう奨学金の面接を受ける必要がない]ってことがわからないのか?あの奨学金を受けることが出来るのはどういう人物なのか劇中説明があったじゃん(例えばハンディキャップのある人)!それでもあえて[ベンが面接を受けた]のは、映画的なオチのためだということがわからないのか?
超人的な体を手に入れたのに圧倒的な無力感に苛まれ、結局何も変わらなかったことを受け入れるしかないブルース
わはは!あのブルースの表情から読み取ったのがそれかい!
死が日常の世界に住む男たちが、赤ちゃんという生を目の当たりにして、[わずかに残った良心に気付く場面]。[「女を犯すことも子供を殺すこともできない精神的に去勢されたマフィア」を演じた ヴァンサン・カッセルと、「圧倒的な迫力の中に優しさを隠している男」を演じたヴィゴ・モーテンセン]。彼らの素晴らしい熱演も福本次郎の前には無駄に終わったな。
そしてリンク先にあるゼア・ウィル・ビー・ブラッド評論(ネタバレ)があまりにも凄すぎる!凄すぎるので読みながら悶えた。こんな奴にも映画評論の仕事が来るのかよ!
まだまだ大量にあるので、いつか福本次郎ネタの第二弾やります。
2008-08-24