hakaiya Twitter April 16th
4月 16th, 2013ステマでよさこいソーランを踊る『魔法遣いに大切なこと』
4月 15th, 2013いきなりだが『こち亀』のステマネタの画像を見てほしい。
両さんがハイパーベーゴマをゴーリキのようにゴリ押しで各メディアに売り出すというエピソードだけど、これをガチでやっている映画があった。デートでよさこいソーランを踊る『魔法遣いに大切なこと』だ。
『魔法遣いに大切なこと』そのものについては2008年の「この映画はいったい誰が観に行くんだ 大賞」のアッシュさんのコメントがわかりやすく表現している。
五年も前に一度テレビアニメ化して(声優・宮崎あおい!)たいしたヒットもせず、今年もう一度アニメ化してもやはりぱっとせず、にもかかわらずとどめに実写映画化される作品。
これの企画者は、いったいどんな超能力を持っているのか教えてください。
調べてみると、『魔法遣いに大切なこと』アニメ版は設定の矛盾などをツッコミ入れられていた。
実写版のヒロインは山下リオで、相手役は岡田将生。この世には魔法使いが実在して、魔法使いたちは日本の公務員として人々のために働いているという設定だ。以下ネタバレ。
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魔法使いである山下リオと岡田将生は中盤のクライマックスで、座礁したイルカたちを魔法を使って助ける。そこで仲良くなった二人は食事をする。
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そして二人はよさこいソーランの練習を観に行く。何でだよ!
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ヒロインがいきなりよさこいソーランを踊り出す。
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結局みんなで踊り出す。この後、よさこいソーランを踊った二人は急接近するのであった。
ググってネット上の感想を調べるとみんな戸惑っていた。実際このシーンは観るのも辛い珍シーンだった。
このシーンには大きな問題がいくつかある。
- よさこいソーランに関する伏線が全くないし、このあと二度と出てこない。
- 魔法使いという映画の世界観をよさこいソーランが完全にぶっ壊してしまった。
- 二人が急接近するシーンなのに、映画とまったく関係のないよさこいソーランを使った。二人が仲良くなるきっかけはストーリーに関係のあることにすべきだった。おかげで二人が好きになった理由がよさこいソーラン以外に存在していない。
Wikipediaで調べてみると、二人をよさこいソーランに誘ったキャラは原作だと下北沢のストリートミュージシャンだった。なぜそれがよこさいソーランに変わったのか?そして何故主役たちが踊るのか?
調べてみたけれど、ちょっとわからなかった。よさこいソーランは北海道の夏の観光資源で(数年前やたらプッシュしてたね)『魔法遣いに大切なこと』は北海道も舞台なので、そこらへんの関係かもしれない。もしかしたらステマじゃなくて、単によさこいソーランを使いたかっただけかもしれんけど。
こういうステマチックな珍展開は日本映画でよくある。とくにメジャーなタレントを使った低予算映画がやりがちだ。パッと思いついた所だと
- ファミマのチキンを褒めながら食べる榮倉奈々の『阿波DANCE』
- バレエの映画なのに東方神起のライブでダンスの勉強をする黒木メイサの『スバル』。
- 全編に渡ってスポンサーの商品が出てくる石原さとみの『フライング・ラビッツ』
プロデューサーがスポンサーに金を出させるときに「あのタレントに劇中ステマやらせますから!脚本で勝手にシーンを追加するので大丈夫です!」というコントみたいな展開があるのだろう。
何度か破壊屋に書いているけど、こういうのは「ステマ」じゃなくて「プロダクト・プレイスメント」と呼ばれていて、アメリカ映画でもガンガン使われている。しかし日本映画のやり方はセンスが悪い上に、スポンサーの都合で作品が壊されているので、「ステマ」という蔑称ちっくな言葉を使いたい。
なぜ日本映画のステマはこんなに酷いのかちょっと考えてみた。芸能事務所にとってタレントとは俳優というよりもスポンサーをつけて金を稼ぐ商品という側面が強い。さらに事務所にとってお客さんはファンじゃなくてスポンサーの企業たちだ。だから作品の質が軽んじられるだろう。特に原作ファンの想いなんて作り手にとっては邪魔なだけかもしれない。
ちなみに『魔法遣いに大切なこと』のラストは、ヒロインは魔法使い特有の難病でもうすぐ死ぬ。だから死んだお父さんのお墓にいって、魔法の力を使って死んだお父さんを蘇らせて結婚の御挨拶をしたら、ヒロインも死んじゃって残されたお母さん(永作博美)が号泣。しかも花婿はいなかった。という凄いオチだった。
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エイベックスの映画なので東方神起が出てくる。
アシンメトリーの映画『コズモポリス』
4月 11th, 2013デヴィッド・クローネンバーグ監督の最新作:『コズモポリス』を観た。主演は『トワイライト』シリーズを通じて顔色が悪い人を演じたロバート・パティンソン。映画の設定は、成功した投資家エリックを演じるロバート・パティンソンがリムジンに乗って、金融パニックが起きているマンハッタンを移動するというもの。
エリックは行く先々で色んな人と会うが、一度会った登場人物の多くが二度と出てこない。劇中のエリックは彼らと哲学的な会話を重ねる。残念ながら会話の内容を追うのはかなり難しく退屈だ。一番印象的なのは年上の愛人演じるジュリエット・ビノシュ(もう50歳近い!)とのラブシーン。
投資によって世界の金をかき集めるエリックだけど、彼自身の世界はおそろしく狭い。立ち上がることすらできないリムジンの中で完結している。トイレすらもリムジンだ。
以降:ネタバレ
この映画は後半になると非対称(アシンメトリー)のモノが多く出てくる。エリックは体内に非対称を持ち、顔半分だけクリームがついたままにする。またエリックの周囲にも非対称の顔を持つ男がいる。逆にエリックの失敗の原因となったのは対称性のある市場理論だった。
エリックがリムジンから解放されたとき、クライマックスとして究極の非対称が出てくる。イケメン金持ちであるエリックの非対称、それは無職のポール・ジアマッティだ。ポール・ジアマッティ演じるベノはエリックを殺そうとするが、エリックはベノを殺そうとしない。エリックにとってベノは非対称の自分だから。そして俺にはこの映画の結論がわからなかった。だって終わり方が…。
hakaiya Twitter April 9th
4月 9th, 2013「死ぬ前におっぱいが見たいです」「いいわ見せてあげる」戦火のナージャ
4月 7th, 2013戦場で両足吹っ飛んだ兵士が、その場で女性衛生兵に「おっぱいを見せて」とお願いして拒否されたというニュースが世界的な話題になった。
断られたのは当然だと思う。ところで映画『戦火のナージャ(2010)』では全く同じシーンがある上におっぱいを見せる。今回はそのシーンを解説するけど………そのシーンはネタバレに直結なので以降は完全ネタバレになる。
『戦火のナージャ』は続編映画だ。第一作『太陽に灼かれて(1994)』はアカデミー賞とカンヌの両方を受賞したロシア映画の傑作。舞台は1936年のソ連で、ドミトリという男とソ連の英雄コトフがスターリンの粛清に巻き込まれる一日を描く。
いきなりだけど『太陽に灼かれて』のネタバレ。ラストシーンでドミトリは手首を切り、コトフは粛清されて終わる。が、20年後の続編『戦火のナージャ』はドミトリもコトフも実は生きていた!という設定だ。何じゃそりゃ。なんでそんな続編を作ってしまったのかというと、監督のニキータ・ミハルコフ(コトフ役でもある)は独ソ戦争版の『プライベート・ライアン』をやりたかったとのこと。予算集めるために過去の傑作の続編企画を立ち上げたんだろうな。
『太陽に灼かれて2』は莫大な製作費をかけた三時間の大作となった。しかし傑作だった第一作とは正反対に第二作は海外での評判が凄まじく悪い。『戦火のナージャ』は『太陽に灼かれて2』を二時間半までに編集して、コトフの娘ナージャに焦点を充てた日本独自の作品だ。
『戦火のナージャ』の舞台は40年代前半の独ソ戦争だ。とにかくストーリーを省略して、一気におっぱいまで語る。
父コトフと生き別れたナージャはソビエト共産党の従軍看護師になっていた。ナージャはドイツ軍の襲撃を受けた際に神父に救われたことをきっかけに洗礼を受ける。ナージャはその後も次々とドイツ軍の蛮行を目の当たりにし、発狂寸前までに追い詰められる。だがナージャは「私が生きているのは神が私を生かしたから、父と再会するのが神に与えられた私の使命」と自己解釈する………これがクライマックス。で、ラストシーンはどうなるかというと…
(PCからアクセスしている場合は画像をクリックすると拡大します)
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- ナージャはドイツ軍にボコボコにされた都市にたどり着き、そこで唯一生存していたソ連兵士と会う。負傷した兵士は顔を焼かれて年齢がわからない。
- 兵士はナージャの胸元に十字架を見つけて驚く。共産党は神を否定しているのに!ナージャは慌てて十字架を胸の中に隠す。しかし胸がはだけてしまった。
- ナージャが兵士を起こそうと抱きかかえると、兵士の背中に穴が開いていることがわかる。ここでナージャと観客はこの兵士が助からないことを悟る。しかしナージャと観客の心配をよそに、この兵士はナージャのおっぱいを意識し始める。そして…
- 胸を見せてくれと懇願する兵士。戦場では人間のモラルが簡単に崩壊してしまうことを描くのか?と思いきや………
- 男の魂の慟哭が描かれるのであった。エロ画像が無かった当時は童貞=おっぱい知らずである。
- ナージャは服を脱ぎだす。彼女は神が遣わした天使か!(すぐ天使扱いするのは日本人の悪いクセ)
- ナージャは脱ぎっぷりが良いうえにかなりの巨乳であった。これは男のために神が与えたもうた配材であろうか。(もう一度書きますが、PCからアクセスしている場合は画像をクリックすると拡大します)
- しかしナージャが脱ぎ終わると男は死んでいた。
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- それはあまりにも無常ではないか。神がいるのなら何故戦争が起きるのか!神がいるのなら何故彼はおっぱいを知ることなく死ぬのか!ナージャの表情はわからない。
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- カメラは引いて。
- さらにカメラは引いて。
- まだまだカメラは引いて超ロングになる。一分くらいかかる長いシーン。
- いきなり映画は終わる。独ソ戦はどうなるのか?ナージャは父と再会できるのか?父コトフを追うドミトリは?など何もかもが尻切れトンボとなり、続編の『城塞』へ続くが『城塞』が日本に輸入されることは無さそうだ。ちなみに『戦火のナージャ』『城塞』は評判が悪いだけではなく、莫大な製作費をつぎ込んでの大コケだった。
この胸を見せるシーンは10分に及ぶ。ここだけじゃなくて映画全体が間延びしきった演出ばっかり。致命的なのはグチャグチャになった脚本で、場面転換するたびに状況説明がないしそれ以前に状況が繋がっていない。
このおっぱいラストシーンも映画の失敗感を強めてしまっている。ただナージャと兵士の会話はちょっと面白い。兵士は神を信じていないんだけど、ナージャが信者だと知って祈りの言葉を教わろうとする。
- 兵士
- 祈りの言葉を教えてくれ
- ナージャ
- すべての意志を委ねよ
- 兵士
- 俺の意志に?
- ナージャ
- 彼の意志よ
- 兵士
- スターリンの意志か。
ナージャの言う「彼」とはもちろん神のことなんだけど、兵士はそれを「スターリン」のことだと解釈してしまう。そんな彼が死を前にしたときにおっぱいを要求するのは、宗教も独裁も超越した個人の意思を………というのは考えすぎだろうか。
ちなみにナージャ役の女優は、監督・脚本のニキータ・ミハルコフの娘。娘を使ってこんなラストシーンを………いやいや考えすぎだ。